京都三条大橋 高山彦九郎像のいわれ
 京阪三条駅の真上、市バスのバス停前の「高山彦九郎」像、集合
場所の目印に良く利用しますので、目にした方も多いのでは…。
 銅像は彦九郎が京都を出入りする度に皇居の方角を向き、ひれ伏
す姿を再現しています。
 説明板には、18才の時以来、五回上洛したが、京都に出入りする
折には、この銅像の姿のように、京都御所の向かって拝礼した。
 その姿は、和歌にも詠われ、明治維新を成就した勤王の志士達は、
彦九郎を、心の鑑と仰いだと、書かれてます。
 京都の人は、説明を読んでも、「へー田舎から出てきて、丁寧に皇居
に向かってお辞儀するだけで、こんな立派な銅像になるの?」
 この人物の像には、そのような程度しか、認識がなかった様に、
思います。
 像の裏には、「昭和19年11月建立」と、あります。
 その頃は、太平洋戦争さなかで、金属類が無いと、お寺の鐘や、
鉄道のレールなども、皆、鉄砲の弾となった時代です。
 良くもその時代にこの様な立派な銅像が建ったのが疑問と
思ってました。
 
 先月用事で、福岡県久留米市を訪問した時、遍照院というお寺があり、立ち寄ってみると、
そのお寺に、高山彦九郎のお墓が在りました。
 江戸時代の勤王思想家で、46才の時久留米市で自刃した、と、説明されてます。
 それにしても、その墓の立派なこと、京都の銅像の説明と、人物の
取り扱いが全然違います。
 側には、彦九郎の自刃に、同意して後を追って、同じく自刃した人
の墓も在ります。
 入り口付近には、高山彦九郎政之の胸像も在ります。
 顔は晩年のでしょう、髭たっぷりの凛々しい顔で、京都の青年像と
は貫禄が出ている姿です。
 このお寺から、300m程離れた場所には、「高山彦九郎終焉の地」
と、表示された処も見つかりました。
 場所によって、一人の人物がこの様に取り扱いが違うのには、驚き
です。

 早速、この、高山彦九郎の、人物像を調べて見ました。

 彦九郎は江戸時代は延享4年(1747)に上野国新田郡細谷村、
現在の群馬県太田市細谷町に農民である高山彦八正教の次男 とし
て生れたと伝わります。  
 江戸時代中期の勤王思想家で、その後の幕末の勤王の志士たち
に大きな影響を与えた人物と云われています。  
 時は幕藩体制が揺るぎだした頃とは云えまだまだ幕府の権力 が強
い時代に尊皇を唱え幕府を批判します。
  彦九郎は尊皇の旅と交遊の詳細な日記を残しつつ全国を回ります
が、ついには幕府の締め付けのためか、久留米で自刃してし まいます。
 尚、彦九郎の古里、群馬県太田市には、「高山彦九郎記念館」も、
あります。
 
 。
高山彦九郎の墓 高山彦九郎胸像
後追い自刃した人物の墓 高山彦九郎終焉の地
 TOPへ、    「トマソン風景」へ、   次のページへ
inserted by FC2 system